『フォビアがいっぱい 多文化共生社会を生きるために』 高山陽子編 3

3 エゴフォビア

「美魔女とBBAは、いずれも対象となる女性を見た際に、その外見に対して用いられる言葉でもある。つまり見る/見られるという関係の中で意味を作り上げていく。」

 

「外見と年齢で女性なり男性なりを判断する人は、自分も判断される対象であることを忘れてはならない。」

 

「戦後の日本では非宗教化が進み、「自分は無宗教」という人も多い。とはいうものの、何かにすがりたいという気持ちがなくなるわけではない。そこで登場するのが、パワースポットやおみくじ、占いである。」

 

「以前は「話がうまい/下手な人」「話が面白い/つまらない人」など性格の一部として受け止められていたが、現在では「コミュニケーション能力(コミュ力)が高い人/コミュニケーション障害(コミュ障)の人」などと能力として捉えられる傾向がある。」

 

「言語的差異が否定的感情と結びつく時に言葉の劣等感を覚えるのであるが、この感情と結びつき方には個人差があり、また連想ゲームのルールは変化する」

 

「「英語へのコンプレックスがある」という表現は、「英語ができない」や「英語が苦手」を意味し、コンプレックスは劣等感として一般的に意識されている。この英語への劣等感には、学習者の「英語ができないけど、使いたい」という願望が根底にある。」

 

生活保護などの社会保障制度がこの国には用意されている。しかし、制度の利用要件を満たしていても、現場から聞えてくるのは、「まだ働けるでしょ?」などと言われて窓口で追い返されたという声である」

 

「こうした状況にさらなる追い打ちをかけるのが自己責任論である。自己責任を主張する人は、失業したのは当人が不安定な仕事や雇用形態を選んだからであって、頼れる家族や知人がいないのも良好な関係維持に努めなかったからだと「正論」を振りかざす。」

 

 「自分がそれを持っていない、すなわち、「今の自分はモテてない」、「今の自分はヤセていない」と考えるときにモテやヤセという理想に縛られる。その結果、「モテれば人生バラ色!」「ヤセればかわいくなる!」という一発逆転の発想が生まれる。」

 

インセルは「不本意な禁欲」を意味するが、性的魅力に劣るという劣等感を抱く故に恋人ができない男性を指す。女性への激しい憎悪の感情は、ステイシー(魅力的な女性)とチャド(魅力的な男性)への無差別殺傷事件に発展することがある。」

 

「どうすれば劣等感から解放されるのだろうか。最初に、自分が抱えている理想や規範に妥当なものであるかを検討してみよう。ひょっとしたらその理想は実現不可能なシロモノかもしれない。」

 

ここまで読んで、一つ前のジェンダーフォビアの項目との関係が気になった。

「今の自分はモテてない」「モテれば人生バラ色!」というのと、

「今の自分は女性としてパスしてない」「パスすれば人生バラ色!」は何が違うのだろうか。

前者は捨てるべきまやかしの理想で後者は称揚すべき真の理想であると見做すとき、その境界線はどこにあるのだろうか。

『フォビアがいっぱい 多文化共生社会を生きるために』 高山陽子編 2

第二部 ジェンダーフォビア
「この世に生まれた瞬間に、医師が新生児の外性器を判別して男か女かに分類する。」

ジェンダーという言葉は、社会的、文化的につくり出される性差を、このように根源的なところから照らし出そうとするものだ。」

「男と女以外をLGBTと括り、そちらの側を尊重すると言って終わっていないだろうか。」

「「ふつう」以外も認めるということと尊重とを同じ、としていることに気づく。そこで「ふつう」は当たり前、これは何も変える必要がないものになっていないだろうか、という吟味もできる。」

(『女子的生活』というドラマに描かれたトランス女性の)「みきの自己肯定のきっかけになったのが、高校時代に見た「海外ドラマやリアリティ・ショー」である。この海外ドラマはみきが抱く女子のイメージを形成するものである。みきは、「テレビの中の女の子は、大学生という設定だった。なのにお酒を飲み、煙草を吸い、セックスをしていた、ケンカになれば相手を思いっきり罵り、腕力にまかせたバトルを繰り広げる。よく泣いて、よく笑って、よく食べて、それが、特別ではない女の子の物語として描かれていた」ということを強調し、その女性たちについて「なんて自由で、強くて、可愛いんだろうー」と感嘆する」

「男性の自殺率が高いことを踏まえて、「だって絶対、女の方が面白いもん」という一節もある」

「父親の育児を当たり前のものにするためには、例えば国や企業が共同して、母親も父親も働きやすい環境や制度を整えていく必要がある。」

「企業戦士として過酷な労働を強いられる男性の働き方を見直し、ワーク・ライフ・バランスを達成できるような取り組みが必要であるということである。」

「組織内において女性やその他マイノリティ・グループに属する人が要職に付けない状態、または彼女ら/彼らの昇進を阻む目に見えない壁を指して、ガラスの天井と言う。」

「性とは関係のない場面において、本人の意思を無視して女性をセクシュライズ(性化)し、客体として扱うまなざしは、それ自体、女性差別である。」

「お飾りとするにせよ、接待要員とするにせよ、そこには女性を独立した人格の持ち主とは認めず、男性の視線の対象として客体化する、根深いミソジニーが潜んでいる。」

 

いくつか違和感を持つ文面がありました。

「医師が新生児の外性器を判別して男か女かに分類」という文章と「ジェンダーという言葉は、社会的、文化的につくり出される性差」という文章は繋がっています。

「医師が新生児の外性器を判別して男か女かに分類」しているのは「社会的、文化的につくり出される」ものではないですよね。

トランス女性のみきが「ケンカになれば相手を思いっきり罵り、腕力にまかせたバトルを繰り広げる。」というのに共感するのも、

それは単に「男性ジェンダー」を見せてもいいということなのでは。

『フォビアがいっぱい 多文化共生社会を生きるために』 高山陽子編 1

「フォビア(phobia)には、特定のモノや場所に対する恐怖心と、特定の人に対する激しい嫌悪や憎悪という意味がある。」

「対人フォビアを持っていたとしても、必ずしも他者への攻撃に向かうわけではない。その中のごく一部がヘイトクライムを犯し、ごく一部が犯罪に至らなくてもSNS上で執拗に批判的な書き込みをする。」

第一部 ゼノフォビア
「入口はフォビアであれ、他者とのコミュニケーションから「歴史の紐」を解きほぐしていくことから始める、もしくは違和感を他者理解の端緒としていくしかない。そして、フォビアとの付き合い方、それは無関心を脱して他者を知り、理解をできないまでも自らの他者モードをつくり出すことにあるのではなかろうか」

「互いの違いを認め合いながら、対等な関係を築こうとしながら一緒に生きていくという意識を持つ人こそが、多文化共生を促進できる人である。日本人が使うことを外国人に押し付けるのは、多文化共生の考えに合致しない。」

「みなさんは朝鮮学校をご存じだろうか」「学校運営に占める北朝鮮からの教育援助費の割合は1~2%程度に過ぎない。」

「同校美術部のTwitterに寄せられたヘイトスピーチが数十枚の紙に書き上げられ、それらが縦長の直方体の三面に貼りつけられている。紙には「典型的なゴキブリ朝鮮人(ゴキチョン)だよね笑」、「おら、チョンコ!出て行かんかい!おまエラが出て行くまで徹底的にやったるわ」、「めんどくせーな、拉致犯罪者は北朝鮮に帰れよ」、「朝鮮学校を叩き潰せ」など、書き起こすだけでも相当な苦痛を伴っただろう罵詈雑言が躍る。」

嫌韓は、字義通り韓国、韓国人を嫌う感情やその感情に基づく言動を表す用語である。ただ、この言葉の主な用いられ方に鑑みると、排外主義的なゼノフォビアに表れる激しい嫌悪感や敵対心を示す場合が多い。」

ウィキペディア嫌韓記事のうち概要の差所の説明に付された脚注の中身を見ていくと(略)日本国内でび嫌韓を正当化するために、韓国メディアの記事が書かれた目的や文脈を無視した、韓国・韓国人の迷惑行為の羅列になっていることが分かる。」

本質主義(essentialism)とは、特定の人間集団(民族・人種・性別など)や事柄には変わらない固有の性質、つまり本質があると考える立場のことである。」

 

既知の内容がほとんどだったが、あらためて確認という感じですね。

『シンデレラ・コンプレックス』コレット・ダウリング

「どうやら、わたしたちが権威から分離して自分の足で立とうとしはじめるとき、わたしたちはそれまで自分のものだと思い込んでいた価値観が自分のものではないことに気づく。それは他者のものだ―はつらつとして何から何まで包み込んでしまう過去の、はつらつたる人たちのものだ。」

「ある程度まで、依存欲求は、女のみならず男にとってもごく正常なものである。しかし女の場合は、これから見ていくように、不健康なまでに他人に頼ることを子供のときから奨励されてきた。」

「なるほど女もしばしのあいだは自分自身で思いきったことをやれる。学校へ行き、仕事をもち、旅をする。かなりの金を稼ぐ。しかし何をしてもその下には、女の自立感情の限度というものがある。しばらくがんばっているだけでいい、そう幼年期の物語は教える、いつの日か誰かがやってきて本物の不安からあなたを吸い食いだしてくれるのだから。」

「女が本気で「解放」を目指す企てはただひとつしかない。そしてそれは、自分自身を内面から解き放つことだ。本書の主題は、個人的、心理的な依存が―他者に面倒をみてもらいたいという欲深い願望が―今日、女を押さえつけている主力だということにある。わたしはそれを「シンデレラ・コンプレックス」と名づける―網目のように入り組んだ抑圧された姿勢と恐怖、そのために女は一種の薄明かりのなかに放り込まれたまま、精神と創造性を十全に発揮できずにいる。シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けているのだ。」

「マンハッタンで開業するシモンズ博士は、成功し昇進する女性を数多く診ている。彼女たちのなかに、博士は自己拘束という症状がひろがっていることを見るのだ。生来の能力ということからいえば、あまりにも多くの女性が無能力化されていて、自己の十全な潜在力を認識できずにいるようだ。
 なぜだろう。何がそういう女たちを引きとめるのか。
 怖れだと、シモンズ博士はいう。成長過程につきものの不安を女は経験したがらない。それは女の育てられ方と関連する。子供の頃、女は自己主張と自立を教えられない。自己主張をしないで依存するようにと教えられる。」

「女の子は男の子とはだいぶ違った訓練の仕方をされる。この訓練の行きつく先は、自分の能力以下の仕事にへばりつく、おとなになった日の彼女たちだ。
 これの行きつく先は、彼女たちが夫となる男性に嚇しをかけられているような気分になり、守ってもらいたいがために彼らにつき従うようになることだ。」

「学校では勤勉で従順であることをいつでも教師にほめられていてばかりに、職業社会で自分を通用させるのにも従順さを頼みとするわたしたちは、自分がまるで一人前のおとなでないような扱われ方をされているのに、じきに気づく。貞操、たぶんそう。気がきく、たぶんそう。」

「女の子なら、「いい子」のしるしであるとされるものの多くが、男の子においてはまったく情けないことと見なされる。身体活動面での臆病さや極端な慎重さ、「お行儀よく」おとなしくしていることや、人の助けや支援に頼ることは、それが女の子なら―自然と見なされる。」

「依存訓練は女の子が赤ん坊のときに始まる。女の子は男の子ほどいじりまわされることがなく、大事大事にあやされる。」

「12,3歳ごろまでの女の子は、多少なりとも自分の思いのままにふるまっていられる。ところが思春期を迎えるや、仕掛け扉がピシャッと閉まるのだ。いまや女の子には、新たな特定の行動が期待される。なんとなく(そして多くの場合、ややあからさまに)、女の子は男の子との「うまいおつき合い」をほめられるようになる。」

「ここにきて女の子たちが直面するのは、まさしく今日の文化における女らしさの中心となってきたもの、すなわち、依存と自立の葛藤である。このふたつのほどよいバランスとは?どうあるのが「正しい」のか?どうあるのが「適切」か?意見ももたず「個性」ももたない、依存心の強すぎる女の子はさえない、魅力のない女の子に思われる。かといって、自立心の強すぎる女の子もいただけない。」

「「ここでもまた」とメレディスはいった。「『おれのいうとおりにすれば面倒をみてやろう』なんです。まさにそれが、長年つづいてきたわたしと父との関係を要約していますね。そう思うと泣きたいくらいですわ」」

「女は家庭に囚われの身となった―自分が赤ん坊の面倒を見なければ、ほかに誰もやってくれないのだというただならぬ思いに鎖でつながれて。」

「結婚からくる安全さは―愛され必要とされることの安全さは―独力で何かしなければと焦りながらも怖くてしかたない女にとって、雑多な色合いの幸福である。「彼」からのネガティブなプレッシャーはどれもみな、自分自身の内なる恐怖から気をそらすためのものにすりかわる。」

「自分自身になるとはどういうことか。それは自己の存在の責任を担うことだ。自己の人生をつくりあげること。」

「自己を信じる女は、能力を超えたむなしい夢を見て自分を欺く必要がないのだ。同時にまた、自分に適応能力があり、その用意もある課題を前にして、ぐらつくこともない。現実的で、地に足がついていて、自己を愛しているからだ。ついには、自由に他者を愛する―自己を愛するがゆえに。そうした一切は、どれもこれもが、自由へと跳躍した女に属する。」

 

この本の原著が出たのが1981年。それから40年程度。
この当時と今とで子育ての感覚は違うと感じる人と、変わらないと感じる人とどちらもいると思う。

 

この話題は割と取り扱い注意だと思う。
使いようによっては
「女性が社会で活躍できないのは、

女性たち自身が責任を持つことを避けて、男性に依存してるせいだ」と、

女性の活躍を阻む理由付けに容易に使える。

 

この本の重要な点は女性が能力を発揮『しないように育てられている』

ということである。
つまり親や教員がそういう育て方をやめれば

女性は能力を発揮できるようになるということだ。

「かくれたカリキュラム」論にもつながる話になる。