『シンデレラ・コンプレックス』コレット・ダウリング

「どうやら、わたしたちが権威から分離して自分の足で立とうとしはじめるとき、わたしたちはそれまで自分のものだと思い込んでいた価値観が自分のものではないことに気づく。それは他者のものだ―はつらつとして何から何まで包み込んでしまう過去の、はつらつたる人たちのものだ。」

「ある程度まで、依存欲求は、女のみならず男にとってもごく正常なものである。しかし女の場合は、これから見ていくように、不健康なまでに他人に頼ることを子供のときから奨励されてきた。」

「なるほど女もしばしのあいだは自分自身で思いきったことをやれる。学校へ行き、仕事をもち、旅をする。かなりの金を稼ぐ。しかし何をしてもその下には、女の自立感情の限度というものがある。しばらくがんばっているだけでいい、そう幼年期の物語は教える、いつの日か誰かがやってきて本物の不安からあなたを吸い食いだしてくれるのだから。」

「女が本気で「解放」を目指す企てはただひとつしかない。そしてそれは、自分自身を内面から解き放つことだ。本書の主題は、個人的、心理的な依存が―他者に面倒をみてもらいたいという欲深い願望が―今日、女を押さえつけている主力だということにある。わたしはそれを「シンデレラ・コンプレックス」と名づける―網目のように入り組んだ抑圧された姿勢と恐怖、そのために女は一種の薄明かりのなかに放り込まれたまま、精神と創造性を十全に発揮できずにいる。シンデレラのように、女は今日もなお、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けているのだ。」

「マンハッタンで開業するシモンズ博士は、成功し昇進する女性を数多く診ている。彼女たちのなかに、博士は自己拘束という症状がひろがっていることを見るのだ。生来の能力ということからいえば、あまりにも多くの女性が無能力化されていて、自己の十全な潜在力を認識できずにいるようだ。
 なぜだろう。何がそういう女たちを引きとめるのか。
 怖れだと、シモンズ博士はいう。成長過程につきものの不安を女は経験したがらない。それは女の育てられ方と関連する。子供の頃、女は自己主張と自立を教えられない。自己主張をしないで依存するようにと教えられる。」

「女の子は男の子とはだいぶ違った訓練の仕方をされる。この訓練の行きつく先は、自分の能力以下の仕事にへばりつく、おとなになった日の彼女たちだ。
 これの行きつく先は、彼女たちが夫となる男性に嚇しをかけられているような気分になり、守ってもらいたいがために彼らにつき従うようになることだ。」

「学校では勤勉で従順であることをいつでも教師にほめられていてばかりに、職業社会で自分を通用させるのにも従順さを頼みとするわたしたちは、自分がまるで一人前のおとなでないような扱われ方をされているのに、じきに気づく。貞操、たぶんそう。気がきく、たぶんそう。」

「女の子なら、「いい子」のしるしであるとされるものの多くが、男の子においてはまったく情けないことと見なされる。身体活動面での臆病さや極端な慎重さ、「お行儀よく」おとなしくしていることや、人の助けや支援に頼ることは、それが女の子なら―自然と見なされる。」

「依存訓練は女の子が赤ん坊のときに始まる。女の子は男の子ほどいじりまわされることがなく、大事大事にあやされる。」

「12,3歳ごろまでの女の子は、多少なりとも自分の思いのままにふるまっていられる。ところが思春期を迎えるや、仕掛け扉がピシャッと閉まるのだ。いまや女の子には、新たな特定の行動が期待される。なんとなく(そして多くの場合、ややあからさまに)、女の子は男の子との「うまいおつき合い」をほめられるようになる。」

「ここにきて女の子たちが直面するのは、まさしく今日の文化における女らしさの中心となってきたもの、すなわち、依存と自立の葛藤である。このふたつのほどよいバランスとは?どうあるのが「正しい」のか?どうあるのが「適切」か?意見ももたず「個性」ももたない、依存心の強すぎる女の子はさえない、魅力のない女の子に思われる。かといって、自立心の強すぎる女の子もいただけない。」

「「ここでもまた」とメレディスはいった。「『おれのいうとおりにすれば面倒をみてやろう』なんです。まさにそれが、長年つづいてきたわたしと父との関係を要約していますね。そう思うと泣きたいくらいですわ」」

「女は家庭に囚われの身となった―自分が赤ん坊の面倒を見なければ、ほかに誰もやってくれないのだというただならぬ思いに鎖でつながれて。」

「結婚からくる安全さは―愛され必要とされることの安全さは―独力で何かしなければと焦りながらも怖くてしかたない女にとって、雑多な色合いの幸福である。「彼」からのネガティブなプレッシャーはどれもみな、自分自身の内なる恐怖から気をそらすためのものにすりかわる。」

「自分自身になるとはどういうことか。それは自己の存在の責任を担うことだ。自己の人生をつくりあげること。」

「自己を信じる女は、能力を超えたむなしい夢を見て自分を欺く必要がないのだ。同時にまた、自分に適応能力があり、その用意もある課題を前にして、ぐらつくこともない。現実的で、地に足がついていて、自己を愛しているからだ。ついには、自由に他者を愛する―自己を愛するがゆえに。そうした一切は、どれもこれもが、自由へと跳躍した女に属する。」

 

この本の原著が出たのが1981年。それから40年程度。
この当時と今とで子育ての感覚は違うと感じる人と、変わらないと感じる人とどちらもいると思う。

 

この話題は割と取り扱い注意だと思う。
使いようによっては
「女性が社会で活躍できないのは、

女性たち自身が責任を持つことを避けて、男性に依存してるせいだ」と、

女性の活躍を阻む理由付けに容易に使える。

 

この本の重要な点は女性が能力を発揮『しないように育てられている』

ということである。
つまり親や教員がそういう育て方をやめれば

女性は能力を発揮できるようになるということだ。

「かくれたカリキュラム」論にもつながる話になる。