『フォビアがいっぱい 多文化共生社会を生きるために』 高山陽子編 2

第二部 ジェンダーフォビア
「この世に生まれた瞬間に、医師が新生児の外性器を判別して男か女かに分類する。」

ジェンダーという言葉は、社会的、文化的につくり出される性差を、このように根源的なところから照らし出そうとするものだ。」

「男と女以外をLGBTと括り、そちらの側を尊重すると言って終わっていないだろうか。」

「「ふつう」以外も認めるということと尊重とを同じ、としていることに気づく。そこで「ふつう」は当たり前、これは何も変える必要がないものになっていないだろうか、という吟味もできる。」

(『女子的生活』というドラマに描かれたトランス女性の)「みきの自己肯定のきっかけになったのが、高校時代に見た「海外ドラマやリアリティ・ショー」である。この海外ドラマはみきが抱く女子のイメージを形成するものである。みきは、「テレビの中の女の子は、大学生という設定だった。なのにお酒を飲み、煙草を吸い、セックスをしていた、ケンカになれば相手を思いっきり罵り、腕力にまかせたバトルを繰り広げる。よく泣いて、よく笑って、よく食べて、それが、特別ではない女の子の物語として描かれていた」ということを強調し、その女性たちについて「なんて自由で、強くて、可愛いんだろうー」と感嘆する」

「男性の自殺率が高いことを踏まえて、「だって絶対、女の方が面白いもん」という一節もある」

「父親の育児を当たり前のものにするためには、例えば国や企業が共同して、母親も父親も働きやすい環境や制度を整えていく必要がある。」

「企業戦士として過酷な労働を強いられる男性の働き方を見直し、ワーク・ライフ・バランスを達成できるような取り組みが必要であるということである。」

「組織内において女性やその他マイノリティ・グループに属する人が要職に付けない状態、または彼女ら/彼らの昇進を阻む目に見えない壁を指して、ガラスの天井と言う。」

「性とは関係のない場面において、本人の意思を無視して女性をセクシュライズ(性化)し、客体として扱うまなざしは、それ自体、女性差別である。」

「お飾りとするにせよ、接待要員とするにせよ、そこには女性を独立した人格の持ち主とは認めず、男性の視線の対象として客体化する、根深いミソジニーが潜んでいる。」

 

いくつか違和感を持つ文面がありました。

「医師が新生児の外性器を判別して男か女かに分類」という文章と「ジェンダーという言葉は、社会的、文化的につくり出される性差」という文章は繋がっています。

「医師が新生児の外性器を判別して男か女かに分類」しているのは「社会的、文化的につくり出される」ものではないですよね。

トランス女性のみきが「ケンカになれば相手を思いっきり罵り、腕力にまかせたバトルを繰り広げる。」というのに共感するのも、

それは単に「男性ジェンダー」を見せてもいいということなのでは。